【上からの知恵】
         
                ヤコブの手紙3章13〜18節
                              
 昨日は、「東京同宗連」(同和問題にとりくむ宗教教団東京地区連帯会議)で知り合った聖公会の0さんの「聖職者按手式」に出席しました。日本キリスト教団の「按手式」が、30〜40分なのに対して、聖公会は2時間で、式文に従って粛々と進められていきます。説教者はイザヤの召命の箇所から、汚れた唇の者が、神によって清くされることによって、その任に就く恵みに与ることを強調した後、「司祭としてのあなたの務めは、言葉と行いによってキリストの福音を宣言し、その教えに従って生活することです。あなたは、すべての人を分け隔てなく愛し、仕えなければなりません」という式の試問の言葉を引いて、このようにいいました。「司祭(牧師)にとっての務めで最も大切なのは、他者の痛みを自分の痛みのように感じる「感性」である。そして、司祭になった証しとしてチャジプルとチャリスとパテン、オイルストック、が教会員から手渡されるのです。最後に新司祭(二人)によって「聖餐式」が執り行われました。教会の伝統の重さを感じる「聖職者按手式」でした。
 
 今日の箇所で語られているのは、「知恵」です。13節後半の言葉に注目して下さい。「知恵にふさわしい柔和な行い」、「立派な生き方」、これは、明らかに3章の1〜2節を前提に語られています。「教師」は、「知恵にふさわしい柔和な行い」「立派な生き方」を示さねばならないというのです。「柔和」、この言葉を聞くとき、私たちは、マタイ5章5節「柔和な人は幸いである」、同じマタイ11章28〜29節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙虚な者だから…」そして、マタイ21章5節「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がおいでになる、柔和な方で、ロバに乗って来る」を連想します。最後の箇所は十字架に架かるために、イエスがエルサレムに入城した場面で、棕櫚の主日に読まれる箇所です。

 このように見てくると、「柔和」のモデルが、イエス・キリストであることがわかります。イエスのように生きる。キリストにならって生きる。それがキリスト者なのです。それと反対側にあるものが、14節に記されています。すなわち、「ねたみ」と「利己心」です。どんなにすぐれた「知識」を持っていたとしてもそこに「ねたみ」や「利己心」があるかぎりそれを真の「知恵」とは言わない、というのです。3章の最初の所でも申しましたが、教会内の争いが背景にありました。すなわち、教会のリーダーが幾ら知識に富んでいたとしても「ねたみ」や「利己心」に生きているかぎり、それは神の御心を行っていることにはならないというのです。「ねたみ」や「利己心」は地上のもの、悪魔から出たものという意味です。それに対して、「柔和な行い」「立派な生き方」は、神から出ているというのです。そのことをヤコブは「上からの知恵」といいます。さらに17節で、上から出た知恵は、何よりも先ず、純真で、更に、温和で、やさしく、従順なものです。憐れみとよい実に満ちていますというのです。
パウロもまた、ガラテヤ信徒への手紙の中で聖霊に導かれた生き方について語ります。(5章16〜26節。)
 
 自分の痛みのように他者の痛みを感じる「感性」を身につけていなければ、どんなに知識があろうとそれでは何の意味もなしません。「上からの知恵」を身につけるために共に祈りましょう。

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