【忍耐の勧め】

                   ヤコブの手紙5章7〜11節

 1517年10月31日 M・ルターは、彼が勤めていた大学の掲示版に『95箇条の提題』(贖宥の効力を明らかにするための討論)と言う文書を貼り付け
、当時の教会の指導者(部)に対して「神学討論」を求める意思を表示しました。そこには、修道者・聖書学者・大学教授としてのルターの全実存を賭けた文書が書かれていました。
 
 当時発明された活版印刷によって、この文書は瞬く間(2週間で)にヨーロッパ全体に広まり、やがて「宗教改革」の大波となってプロテスタント(新教)教会が生まれます。今日の礼拝は、その事を心にとめる礼拝として私たちは招かれています。

 今年度の主日礼拝の宣教では、4月11日からヤコブの手紙を共に読み、分かち合ってきました。「人は行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされる」というパウロの所謂「信仰義認」の教えと対極にあるのが、ヤコブの手紙である。という考え方、またルターが「ヤコブの手紙は藁の書簡である」といった捉え方に対しても、共に聖書を通してその誤解をとき、「信仰義認」と「行為義認」(隣人愛の実践)は表裏一体であることを確認しました。
 今、讃美歌21の377番を歌いました。この歌は「勝利の歌」とされてきましたが、近年のルター研究によって、「慰めの歌」であることが明らかにされたということが、讃美歌略解に書かれています。少しだけ抜粋しておきます。
 
 兵士たちは、この讃美歌を「ドイツの勝利の歌」として歌いつつ戦線に出発しました。最後の「神の国は なおわれにあり」という言葉はドイツ語では「神の」ではなく単に王国となっています。人々はこれを第三帝国=ヒットラー帝国のイメージで歌ったのです。

 第二次世界大戦後のドイツの教会は、この反省の上に立って歌詞を深く研究し直して、「慰めの歌」として新しくとらえ直しました。 

 どのようなときにでも、神さまを信頼して生きるルターの「信仰」がここに歌われています。
この箇所には「忍耐」という単語が、7、8、10、11節に出てきます。この「忍耐」という言葉は、すでにヤコブは、1章2〜4節で語っています。そして5章7節では、主が来られる時まで…とあります。主が来られるとは、イエス・キリストの「来臨」を意味しています。初代の教会の人々の信仰は緊張感に満ちていました。それは、私たちの「主」の「来臨」は間近であるという信仰に他なりません。けれども、ある人たちから、いつまで待てばよいのか、という抗議の声があがります。そこで、ヤコブは、農夫は収穫の実を得るために忍耐していることを最初にあげます。それが、秋の雨と春の雨が降るまでです。
 
 詩篇126編5・6節には、このように書かれています。
 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/ 喜びの歌をうたいながら帰ってくる/」この喜びを得るためには、土地が充分に水を含みよい土地となるように、そしてその土地に蒔かれた種が実をつけるためには、農夫は「忍耐」してその時を待つ。というのです。すなわち、秋(10〜11月)春(4〜5月)がその時期に当たります。またヨエル書2章23節「シオンの子らよ。/あなたたちの神なる主によって喜び踊れ。/主はあなたたちを救うために/秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。/元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。/麦打ち場は穀物で満ち/搾り場は新しい酒と油で溢れる。/」申命記11章14節「わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。」
 
 それゆえに、その時(「来臨」)が間近に迫っているので、心を固く保ちなさい。不平を言ってはならない。というのです。そして、次に預言者の信仰が語られます。
 使徒言行録にあるステファノの説教で、彼は先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。と問います。(7章52節)イザヤ、エレミヤ、アモス 彼らは恥と屈辱を受けます。エレミヤ記20章7〜9節の「エレミヤの告白」で、エレミヤは「孤高」の預言者として生き抜きます。
 
 最後にヨブが登場します。ヤコブは丁寧にテキストを通して語るのではなく、当時、誰もが知っていたと思われる民間伝承でこのことを語っているといわれていますが、その事を聖書で確認してみましょう。@ヨブ記2章10節、A3章11節、B42章12節、ここにヨブの信仰と、ヨブの苦悩が描かれています。
 彼の身を案じた三人の友、すなわちエリファズ、ビルダド、ツォハルらは、代わる代わるにヨブのもとを訪れて、ヨブに問います。「神さまの前に何か罪を犯したのではないのか」と、それに対してヨブはそんなことは決してない。といいます。そのようなヨブに対して神さまは38章で「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。」ヨブは、ここで神の「経綸」の意味を知らされ、そして最後により多くの祝福を受けてこのヨブ記は幕を閉じます。
 
 忍耐しなさいとは、歯を食いしばって忍耐しなさい。ということではありません。神に信頼して生きなさい。ということです。
 主がいつ来られてもよい備えをする。神を信頼して生きる。ということが私たちに求められています。「たとえ地球が明日終わろうともそれでも私はリンゴの木を一本植える」と、いったとされるルターの終末に対する信仰を忘れることなく、神さまとつながりましょう。その時、私たちは「忍耐」の意味を知るのです。

Topページヘ