【主の御心に生きる】
              ヤコブの手紙4章13〜17節


 わたしの誕生日に大変うれしいことがありました。それは水曜日の祈祷会にFさんが娘のSさんといっしょに来られ、共に聖書を読み祈るときが与えられたことです。今年の「受難日」の祈祷会以来の再会でした。ニコニコされ、本当に平安の内に生活しておられること、家族に大切にケアされていることを肌で感じることが出来ました。
 
 今日もまた先週に引き続きヤコブの手紙4章13〜17節を共に読み、分かち合えればと思います。ここで地中海をまたにかけて商売をしている大商人である貿易商が痛烈に批判されています。彼らは、莫大な利益を独り占めしていたようです。彼らが、その利益を得たのは、自分の努力と才覚であると考えていました。
 
 その彼らに対して、ヤコブは人生の儚さを語ります。「やがて消えていく霧に過ぎません。」いくら莫大な財産を取得したとしてもそれが何になるのか、というのです。
 多くの人は人生には、「人生設計」も必要だと考えています。ですから、この生命保険に入っていればあなたを路頭に迷わせない、保険の効かない先進医療もこの保険があれば大丈夫、という類のテレビコマーシャルに動かされるのかもわかりません。
  けれども、私たちは極論をいえば、神さまが私たちを導かれておられるから安心だという信仰に生きているのです。それは決してご利益信仰ではありません。幼い子どもがお父ちゃん、お母ちゃんがここにいるから「安心」というような信頼関係に裏打ちされた信仰です。
 
 ここで私たちが心に留めなくてはならないのは、「主の御心であれば」という言葉です。これは「ヤコブの条件」と呼ばれるものです。けれどもヤコブだけではありません。ギリシャ思想にも、ユダヤ思想にも、新約聖書の中にもこれと同様な事が語られています。新約聖書では、使徒言行録18章21節「神の御心ならば、また戻ってきます」、Tコリント信徒への手紙4章19節「主の御心であれば、すぐにでも…」、同じく 16章7 節「主がゆるして下さるなら」、ヘブライ人の手紙 6章3節「神がゆるされるならば」。この先どのようなことが起ころうとも、神さまにすべてを委ねる生き方がここにあります。
 それに対して、彼らには誇り高ぶっていて神に従う謙虚な心、4章10節のような心がみられないというのです。
 
 ある人は、この箇所を読むためには、箴言16章9節、19章21節に「しかし」という言葉を加えて読んでほしいといいます。するとこのようになります。「人間の心は自分の道を計画する。しかし、主が一歩一歩を備えて下さる。」「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」ですから、わたしたちは高慢にならないためには、常に主がわたしたちを支え導いておられるという信仰が不可欠である。ということです。

 最後に17節は、1章22、25節のみ言葉を行うものになりなさい。と言う言葉を忘れて読んではなりません。すなわち、み言葉を信じて、生きるとは良い行いを実践することに他なりません。悲しいかな、自分の人生設計に戦々恐々としている大商人は、そのことを怠っている。それゆえにあなたには「罪」があるとヤコブは語るのです。
 
 主の御心に生きると言うことは生やさしいことではありません。私たちは目の前に困難が来れば、その障壁に押しつぶされてしまうからです。けれども、それでよいはずがありません。共に神さまにすべてを委ねましょう。そして自分のことだけに終始するのではなく、隣人の事にも思いを馳せるものでありたいと願うものです。 

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