【明日のことはわからない】

                     ヤコブの手紙3章13〜16節
 今日は、「世界宣教の日」・「世界聖餐日」です。この日、私たちは宣教について考え、また聖餐についても考えるためにこの礼拝に招かれています。 毎年教団から、教会に宛てて一つのパンフレットが届けられます。そこには世界各地で働かれている宣教師の近況報告が本人によって書かれています。その中で、ブラジルのベルナンブコ州オリンダにあるアルト・ダ・ボンダーデ・メソジスト教会で働かれている小井沼真樹子さんの文章を紹介します。この文章を読むと、貧富の差が歴然としていることがわかるのです。そのような宣教の「現場」で働いておられる宣教師の方々と教会を覚え、祈る日が「世界宣教の日」です。
 
 もう一つは、「世界聖餐日」です。これは不幸にして分裂した教会〈カトリック・プロテスタント・ギリシャ正教〉の一致を願ってそれぞれの違いを認め合い、聖餐によって一つになるという趣旨ではじめられました。どちらも「世界」のつながりを思う日です。
 
 けれども、それは簡単なことではありません。私はここで一つのショッキングな文章を紹介させていただきたいと思います。ここには、少し前のブラジルの現状が語られています。餓えのためにミサに与る婦人がいる、自分の乳を子どもに飲ませたくても乳ではなく、乳房から出る血だけを含ませる、と。そのような世界の現実を私たちはどれほど知っているのでしようか。
 
 菅直人総理は日本は「最小不幸社会」を目指さねばならないといって、首相になりました。特定の人に「富」が集中し、多くの人が生活に困窮するような社会は決して良い社会とはいえません。医療・介護・福祉・年金・保険などの社会保障が整備されていない社会は「弱者」にはやさしくありません。その意味で、「自己責任」という言葉で、「弱者」を切り捨て、小さな政府を目指すというような社会の在り方が本当に幸福なのか、私たちは問わねばなりません。
 
 今日の聖書の箇所は、金持ちが批判されています。その金持ちとは大商人です。貿易商です。ヨハネ黙示録18章と併せて読むとそのイメージが出来ます。黙示録では、大もうけした商人たちが嘆き悲しむ様子が描かれています。(18章11〜19節)
ヤコブの手紙では、この金持ちは神さまが与えた財産を自分ひとりの努力でもうけたように錯覚しているというのです。私はこの箇所を読みながら、イエスが語られた一つのたとえ話を思い浮かべました。それはルカ福音書12章13節以下です。明日のことはわからないのです。だから私たちは今日を精一杯生きるのです。そしてキリスト者は、イエスの「来臨」のその時まで、この「主の食卓」を守り、生きるものです。
 新約聖書には多様な「聖餐論」が記されています。最後に最近出版された。ドイツの新約学者で、文献社会学を確立したことで有名な、ゲルト・タイセンの最近の著『聖書から聖餐へ』を紹介しましょう。彼は言います。イエス運動は開かれた会食を知っている。@信従者の会食(マルコ2・14〜15)A飢えがそのモチーフとなっている。(マルコ6・34〜44)B最後の晩餐(マルコ14・25)教会の聖餐には、この三の視点が不可欠です。
 聖餐が特権となることなく、すべての人を「排除」しないしるしとして行われなくてはなりません。なぜならば、イエスは「罪人」と言われた人々と積極的に交わり、彼らと食事をしたからです。その意味で、私たちはこの時、Aの飢えをモチーフとした「主の食卓」を志向しつつ、キリストに従う者として、この世に仕える者としてこの「主の食卓」に与りましょう。

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