世界中どこでも     マタイ福音書26:6〜13
 
 先週、山田洋次監督が10年ぶりにメガホンをとった映画「おとうと」を観てきました。笑福亭鶴瓶さんが、ダメな弟を見事に演じた作品です。特に最後の場面で、「行き倒れで保護された」との知らせを受け、余命わずかな弟(鶴瓶さん)を最期まで見守り続けている姉(吉永小百合さん)の姿を通して、「愛」とは何かをあらためて問われたように思います。寅さんのような兄も、この映画の弟も実際にこのような肉親を持てば笑える話ではありません。が…そのようなひたむきな、掛け値なしの愛にわたしたちは感動を覚えるのです。
 
 エルサレムのちょうど東側(反対側)にある村でこの「出来事」が起こりました。彼は穢れた病とされていた「らい病」を患っていました。新共同訳では、「重い皮膚病」とされています。確かに現在の「らい病」と同一視は出来ません。皮膚がうろこのようになり、はがれ落ちる病であったようです。けれども、そのニュアンスからすれば、それは「罰が当たった」とされる病であることは間違いがありません。実際その病のまま苦しんでいたのか、すでに病が回復した人なのかはわかりませんが、そのようなレッテルを貼られた家がシモンの家です。
 
 そこにひとりの女性が登場します。彼女は、石膏の壺に入った、極めて高い香油をイエスの頭に注ぎます。マルコ(14章5節)を読むと、それがどのくらいの値段なのかがわかります。300デナリオン。1デナリオンが1日の労働者の賃金だとすると、約300日分となります。女性がそれほどの高価な香油を注いたのだと言うのです。それに対する弟子たちの反応が8節〜9節(弟子達はこれを見て憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことが出来たのに。」)に描かれています。これはイエスの弟子として、極めて常識的な反応です。
 
 「山上の説教」の分かち合いで確認しましたように、イエスの宣教は「貧しい人々」への宣教でした。この後の章を読むと、奇跡が登場しますが、それもまた貧しい人々、律法では無資格者と見なされている人々への関わりです。そのような人に対して、イエスは神の国を説き、その国(支配)がどのようなことなのかを、実践されたのです。そのようなイエスと寝食を共にした弟子たちがこのような反応をしていることは当たり前と言えます。
 
 ここで、注意していただきたいのは、まず、彼女がイエスの頭に惜しげもなく香油を注いだと言うことです。しかも、その行為はもうじき十字架に架かるイエスに対する「献身」であったのです。ここでイエスを理解し、従ったのが男性ではなく、女性であることに気づくのです。だからこそ、この女性の行為を「世界中どこでも、…」と言われるのです。わたしたちは、このような女性の弟子たちの存在を忘れてはなりません。
 
 福音書は、このことを意識して語っていないかもわかりません。けれども、この物語を読むとき、私はひとりの「献身者」の姿を見るのです。
 
 教会の歴史は、このような女性の存在をあまり重要視してはいないようです。けれども、わたしたちはこの女性の行為を心に留め、イエスの受難を受けとめた時、この女性の行為が、人間的な「愛」では語り尽くせないことに、心を留めなくてはなりません。

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