神の国と神の義を求める生き方
マタイによる福音書6章25節〜34 節
先週の水曜日(「灰の水曜日」)、「東京同宗連」の部落解放基礎講座が、在日大韓キリスト教川崎キリスト教会で行われました。この教会は、故李仁夏(イインハ)牧師が長年会された教会です。そこで、二人の講師の方から「在日」二世としての歩みを聞く機会が与えられました。お一人の方は自分史を通してどのような差別があり、本名を名のるまでの歴史とそれ以後の自分の変化について語られました。またお一人は、関田寛雄牧師が「戦責告白」の実質化を求めてはじめられた教団の戸手教会(河原に教会が建てられ、在日韓国朝鮮人が主体となってはじめられた教会)の牧師です。お二人の話を聞き、イエスの「山上の説教」に聞き入ったのは、4章23節に登場する人々であり、そして4章18〜22節に象徴される弟子たちであることを、あらためて知らされました。
この「思い悩む」「思い煩うな」と言う言葉も、一日の生活が侭ならない境遇にある人々すなわち、ぎりぎりの生活を送っている人々にかけられた言葉です。そのような人々に対して、イエスは「空の鳥を見よ」と語られました。
ルカ福音書を読みますと、その鳥がカラスであることがわかります。カラスは、どのような鳥でしょうか。専門家によれば、学習能力に究めてすぐれている動物ですが、一般的には忌み嫌われる鳥です。聖書では、忌避される鳥として扱われています。(創8:7・レビ11:15・雅5:11など)唯一例外は、エリア物語(列王記上17:6)です。余談ですが、岩波訳の註で、カラスをアラブ人と読み替える学者がいることを紹介しています。同胞の困窮を救ったのは、選民であるユダヤ人ではなく、賎民のアラブ人であった。すなわち、本当の困窮を理解し、助けの手を伸べるのは、差別され抑圧されている人々であると言うことです。
更にルカの27節では、「野原に咲く花」とあります。これはマタイでは「野の百合」と言うことです。いずれにしても、ここで言われている花は、人間が植え、丹精こめた花ではありません。これは神さまが育てた草花なのです。だからこそ、「明日は炉に投げ込まれる」のです。けれども、その花は「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどには着飾っていなかった」と言うのです。「あなたがたは鳥よりもすぐれている。けれども、神さまの導きがなければ、一日たりとも生活出来ない」と言います。それが、「寿命」をわずかでも伸ばすことが出来ないと言うことです。この語は、「身長」とも訳せる言葉です。わずかとは、肘から指先までの約46センチです。医学が進んだ今日に於いても、この事は同様です。そのように考えると、私たちは自分の力では、何一つ出来ない。大切なことは、神さまを信頼して生きることだ。これが、具体的にそこにいる貧しい人々へのメッセージなのです。
私たちは、物理的に貧しいとは言えません。少なくとも私たちはそのような境遇ではありません。一日の糧を得るだけの十分な糧を得ています。だからといって、このイエスの言葉を蔑ろにしてはなりません。大切なことは、今を生きるために「終末」を意識して生きることです。すなわち、33節の「神の国」と「神の義」を求め続ける生き方です。マタイの意図はそこにあります。貧しい人々を蔑ろにすることなく、生きることこそ、私たちに与えられた道だからです。その事を心に留め、この山上の説教の分かち合いを終わります。
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