いのちに通じる道

                マタイによる福音書7章13節〜14節

 
 「狭き門に入る」とは、一般には「競争社会」に勝ち抜いて勝者になることを意味しています。けれども、13節のいわゆる「黄金律」とつなげて読むと、ここで言われている「狭き門より入れ」とは、イエスの示された道を歩みなさい。ということを意味しています。私たちは、自分はイエスを信じる群れ(「洗礼」を受けているので)に属しているから、すでに「狭い門」から入っていると、誤解してはいないかと、ある人は問うています。21節〜23節の言葉は、誰に向けて語られた言葉なのでしょうか。
 この言葉は、弟子たちにそして私たちに語りかけられている言葉なのです。すなわち、クリスチャンに向けられている言葉です。すると、「洗礼」を受けているから「安心」と言うことではない。ということです。「狭い門から入りなさい。」と言われる。「狭い門」は、いのちにいたる「門」です。しかし、その門は大変狭く、そしてその道は細い。ここで使われている細いという言葉(テスリメノス)は、圧縮、圧迫していてこの道を通ることは困難を極めると言う意味です。

 私たちはこの「門」に入ることは無理。と言う前に、ヨハネ福音書10章の「羊の囲い」と「イエスは良い羊飼い」の譬えと14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われたイエスの言葉に耳を傾けましょう。
 
 10章7節で「私は羊の門である」 9節では、「私は門である。私を通って人は救われる。」と言われているので、この門に入らないのが、ファリサイ派(6節)であることがわかります。イエスに祝福されたのは、この「門」を通った者たちです。一見すると、その道は狭くて窮屈で、通り抜けることすら困難のように思われます。またその門を通り抜けた後に続く道もまた狭いようです。
 
 それゆえに、私たちはあきらめて広い門に入り、その道を歩んでしまいそうになります。けれども、その「狭い門」と道には、イエスが共にいて下さるのです。イエスは私たちに身をもって「祝福」の道を示されました。

 21節〜23節で示されているように、いのちの道に入るためには、「黄金律」を文字通り実行しなくてはなりません。教会に属しているから、私はすでに狭い門に入っている。というのではなく、常に私たちの日常の生き方を吟味して、7章13節の言葉を心に留め、日々の生活を送りたいと願っています。
 
 天の国(「神の国」)に入るために、その道を選ぶのではありません。今を生きるために神の義に生きるために、その門を入り、その道を歩まない限り、私たちはイエスの弟子とはならないということです。ある人は、この二つの道は「教会」の中にあると言っています。
 
 私たちは、どちらの道を選択しますか?「滅びの道」、それとも「いのちに通じる道」「信仰を持っているから、自分は…大丈夫。」と言うのではなく、イエスの生きざまに倣う時、この「祝福」の道が備えられています。