福音を実践する者へ

             マタイ福音書7:24〜29 節        
  今月号の黎明で、Aさんが、大学でキリスト教保育を教えている者として、学生の声と管理者の声を紹介しながら、このように結んでおられました。

 「クリスチャンホームに育ったから、あるいは大学でキリスト教について学んだからといって、すぐにキリスト教保育が理解でき、実践できる者ではない。やはり現場で「育てていく」ということがなければキリスト教保育の実践者は生まれてこないのである。」
 
 「育てていく」ためには、様々な準備を整え、それにあったカリキュラムも必要です。けれど、それだけでは十分ではありません。そのようなカリキュラムに加えて、私たちがキリストに「信従」している者として、どのような生き方をしているのかが、問われているのです。その意味で、私自身、ひとりのキリスト者として、どのような証し(生き方)をしているのかを、問うことなしには、ここで語られているイエスの言葉を理解出来ないのだと思うのです。

 さて、今日の箇所も28〜29節の言葉からはじめることにします。そこには、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」と記されています。
 ここでいう、これらの教えとは「山上の説教」全体の締めくくりの言葉を指しています。 4章23〜5章1節には、誰がイエスの教えを聞いて感動したのかが、記されています。
 きっとイエスの言葉は、彼らの生活に密着した言葉であったのです。
 私自身、自戒をこめて語るのですが、よくやるのが、「誰々という学者がこう言った」というように自分の言葉の足りなさをある権威にすがって補足するのです。
それに対して、イエスは、ご自分の生活を土台に据えて語られたのです。 だからこそ、「群衆」はその教えに驚いたのです。
 
 さて、今日の箇所では、家を建てるとき、どのような場所に建てるのかが、語られます。これはあくまでも私の想像ですが、イエスが「公生涯」に入る前の「大工」という仕事が何らかの影響をしているのかもわかりません。テクトンについて「石切」岩や石を削ることで物作りを行う人。と言うことも考慮に入れてもよいと思います。
 ここで、賢い人と愚かな人が対比されています。この事は、7章13節からのいのちにいたる門と滅びに至る門、良い木とわるい木、そして主よ、主よ、という者の締めくくりとして、この譬え話をイエスがされたのだと、マタイは私たちに語っています。ある人は、これを本物と偽物、真と偽を対比させつつ、前者を選択するように説いていると言います。そして、ここでは賢い人と愚かな人が登場するのです。
 
 いずれの箇所にも共通するのは「行う」ということです。すなわち、福音を実践する者となるということです。
 しっかりした土台(岩盤)の上に家を建てることは容易ではありません。砂の上に家を建てるよりも、何倍も、何倍も時間もかかりますし、労力も必要となります。でも、そうしないと、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかるとひとたまりもないというのです。
 ここで言う雨、川、風はハリケーンのような暴風雨が襲いかかるということを想像して欲しいのです。その時、砂上の楼閣は崩れ去るのです。

 ある人は、この暴風雨を人生の試練として捉えてはならない。と言います。その箇所を読むとき、同じマタイの25章の1〜13節、終末に備えて生きると言うことと関連づけて説明していました。私はその説明を受けてさらに31節〜46節のイエスの言葉へと導かれました。特に、40節の言葉です。「はっきり言っておく、私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」と言う言葉です。
 すなわち、終末の時の私たちは生き方を問われている。ということは今をどのように生きるのかということと、無関係ではない。ということです。
 
 イエスは、福音を聞くとは、福音を実践する者となることである。と言います。そのためには、私たちは「悔い改め」なくてはなりません。何を悔い改めるのかと言えば、それは私たちの生き方を方向転換するということです。
 この悔い改めをメタノイアと言います。ある人はこれを逆さまに読めぱ、愛のためとなるといいました。すなわち、あの「黄金律」7:13節を実践することなのです。
 
 最後にマタイ19章16〜22節を読みます。 
私たちは、問われています。福音を実践する者として歩んでいるのかが問われています。