御心を行う者とは
             
                 マタイによる福音書 7:21〜23
 
 先週の日曜日テレビ朝日で山田洋次の「母べい」が放映されました。軍靴の音が声高く鳴り響く中で、戦争に反対し、治安維持法違反の容疑で不当逮捕された獄中の夫を支え、ひたむきに生きる「母親」を吉永小百合さんが見事に演じた作品です。戦争の愚かさ、大政翼賛的となり、戦争に巻き込まれて行く善良な市民が描かれていました。
 その山田洋次監督の「おとうと」が今上映されています。未だ見る機会はありませんが、是非とも見たいと思っている映画です。
 この「おとうと」のモデルとなったのが、私たちの教会も対外献金している「きぼうのいえ」です。これは、山谷のホスピスです。そこにはたくさんの泣き笑いの人生があります。これまで、102人が、この「きぼうのいえ」から旅だったと、記されています。
 
 さて、狭い門、良い木、そして今日の「主よ、主よ」と言う言葉が続きます。この山上の説教のわかちあいで、何回も何回も確認しましたように、これは弟子たちに語られた言葉であり、その言葉を受けてマタイが当時の教会に、そして私たちに語られている言葉です。ですから、ここで言われている対象は明らかです。それはキリストを信じる者たちであり、教会に集められている私たちに向けられた言葉です。
 ここで、最初に注目したいのが、22節です。ここで言われている「かの日」とは、イエスの再臨を指しています。
 
 新約聖書は、この「来臨」を無視して読むことは出来ません。未だその日は来てはおりませんが、私たちはその日に向かって生きるのです。そして、いつその日が来ようとも、その日を迎えることが出来ずに、旅立とうとも「今」を生きることを目指さねばならないのです。
 
 その事を踏まえつつ、21節に戻ります。ここで、「主よ、主よ…」と言う言葉に注目しましょう。この箇所を調べていると異口同音にこの箇所とつながりのある聖書箇所として、Tコリント12:3節をあげています。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。すると、マタイが言う「主よ、主よ」という人たちは教会の中にいる人たちを指していることがわかります。彼は、「御名によって、預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって、奇跡を行ったではありませんか」と言うであろう。と22節を読むと記されています。
 
 わたしは、これは弟子たちに向けて語られた言葉である。そして教会に向けて語られた言葉である。と申しました。
 ここで、私たちは「言う」という言葉「行う」という言葉に注目してみましよう。先ほどのTコリント12・3節では「信仰告白」が語られています。そしてこの信仰告白は、身をもって示すことであることがわかるのです。
 
 ある人は「言う」とは、自分の義を求めて神さまに繋がろうとする人たち。そして、「行う」を神の恵みに仕える従順な人間であると言います。
 私たちは、確かに「告白」してイエスを主とします。けれども、それだけでは狭い門に入ることは出来ませんし、良い木に良い実を結ばせることも叶いません。
 
 大切なことは、「天の父」の御心を行うことなのです。天の父の御心とは、イエスに倣う者として、今を生きると言うことです。
 「パウロは、『信仰義認』なので、云々」というパウロ批判をしている人もいましたが、
わたしはこの後の13章に注目しておきたいのです。それは有名な「愛の賛歌」と呼ばれる箇所です。13節を読みます。
 
 ところで、永続するもの、それは「信頼してあゆみを起こす」こと(信仰)、「確かさに心を向ける」こと(希望)、「人を大切にする」こと(愛)の三つです。このうちもっとも偉大なものは、「人を大切にする」と言うことです。(本田哲郎訳)とパウロが言っていることに注目しながら、12節の「黄金律」を併せて読んでほしいのです。