2019年4月 
冷静な眼で「空気」に流されることなくキリスト者として考えたい
                
                             堀切教会牧師 真鍋孝幸
 明仁天皇退位に伴い、元号が「平成」から「令和」に5月1日変わることがすべてのマスコミで大々的に報道された。世間は大フィーバーである。

 わたしの知る限りそのことに関して疑問を呈するコメントは皆無であった。しかし、わたしの周囲ではそのような「声」だけではない。

 『週刊金曜日』(2019年1月11日発行)1215号では「天皇制」が真正面から議論されている。また同書に寄稿している弁護士の宇都宮 健児氏は『天皇制ってなんだろう?』という本を中学生の質問箱シリーズ第10弾として上梓している。

 明治以後、どのように「天皇制」が位置づけられたのか、「大日本帝国憲法」と「皇室典範」そして「教育勅語」「軍人勅諭」がどのような役割を果たしたのかが、歴史を踏まえて分かり易く説明している。

 また歴史家の原 武史氏は岩波新書『平成の終焉』で退位と天皇・皇后には昭和天皇を経て現天皇明仁は「象徴天皇」というイメージを浸透させるためにどのような知恵を持って語り伝えたのか、いわゆる「おことば」で退位の意を表したことに対して「政治的課題である退位という問題をご自身がおっしゃるのは、憲法の土俵から足が出た疑いが強い」という有識者会議の座長代理を務めた政治学者御厨貴氏の言葉を紹介している。

 明治以後、「皇室典範」で定めてきた原則を改め、江戸時代の光格天皇(1840没)から179年ぶりに行われることになった「退位」について語る。

 国民のために祈り、寄り添う天皇の姿に天皇明仁は「象徴」としての役割を位置づけているが、それがどのような「象徴天皇」を国民に印象づけたのかが、語られていた。

 2016年8月8日「おことば」の中身を第1節から第6節で解説し、問題点を5点に整理している。

 いわゆる「モリ・カケ」問題以来、「忖度(本来の意味ではない意味として使われている)」という言葉がいまなお健在であるが、あの天皇明仁の「おことば」を忖度しなかった結果が「土俵から足が出た」という言葉になったと推察した。

 天皇制とは何か、天皇明仁と皇后美智子が行ってきた国事行為に加えて国民のために「祈り」、「寄り添う」という姿勢をどのようにわたしたちは評価することになるのか、どのように受け止めるのかが、問われているようだ。

 わたしたち「キリスト者」は、わたしたちのために十字架に架かり、三日目に復活したイエス・キリストを「主」と告白する。聖書に登場するアブラハム、モーセ、イエス、パウロ、そしてわたしたちの信仰の先達者たちが、今も「執り成しの祈り」をしてくれている仲間の祈りをわたしは感謝する。そこには主にある交わりがあるからだ。

 行啓や行幸啓を受け入れる人たちがいる一方、望まない人もいる。また対象から外されている人たちがいるという事実をどのように受け止めるのか。

 国民とは誰を指すのか、日本国籍をもった人、そこには在日コリアン、在留外国人は含められているのだろうか。…

 元号改正フィーバーの中で、わたしはじっくり考えたい。「空気」に流されることなく、自らの信仰に照らし合わせて考えたい。

 キリストを「主」と告白しているキリスト者として、枠から排除されている人たちがいるという視点で、聖書に生きる者、み言葉に導かれている者として。

 元号が「平成」から「令和」へと変わるこの1ヶ月間、その意味で原 武史氏の著書等も参考にしながら、四旬節第5主日の準備をする中で。