2019年11月
   16歳の警鐘の言葉をわたしたちは受け入れているのだろうか

                                     堀切教会 真鍋孝幸
 台風15、19号そして26日には21号の影響も少なくないと思われる豪雨が東日本を襲い、千葉県の降水量は記録的な大雨となり、15、19号の復旧もおぼつかないまま甚大な被害をもたらした。

 スエーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは「気候行動サミット」で「あなた方は、わたしたちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、わたしはその声を信じたくはありません。もし、この状況を本当に理解しているのに行動を起こしていないならば、あなた方は邪悪そのものです。だからこそ、わたしは信じたくはないのです」。と語った。

 地球温暖化によって世界の気候は著しく変化(悪化)しているように思われる。二酸化炭素を排出することで、何がもたらされているのか、今後益々「記録的な」「100年に一度」と言われるような自然災害がわたしたちを襲うと思われる。

 作家の高村 薫さんと禅僧 南 直裁さんの対談集『生死の覚悟』を読んだ。彼女は阪神淡路大震災の被災体験で「なぜ、自分は生き残り…あの人は死んだのか。」という問いの中で、仏教にその答えを見いだそうと求道している。ミッションスクールで学び、聖書に親しんだはずの彼女が、仏教にその問いへの答えを見いだしたと言うことに少なからず衝撃をうけた。環境問題、生命倫理などに対しても積極的に発言している神学者E・モルトマンも「戦争」で同じような問いを持ち、捕虜収容所でキリスト者となり、その後数学から神学に方向転換して社会を見据えて神学を構築している。彼はイエス・キリストの十字架の死、すなわちあのマルコ福音書などでイエスが最期に発した「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書16章34節)という言葉の中に、高村 薫さんの問いの答えを見いだした。

 わたしたちは生きている限り、「不条理」を感じる時がある。自分が不治の病に罹り先が見いだせないとき、トンネルの先が見えず、光を見いだすことは出来ない。親しい友、愛する人、肉親などを失ったとき、言い知れぬ喪失感に襲われる。

 しかし愛された経験のない人はそのような感情を抱くのは難しい。今、親の子どもの虐待による凄惨な事件の背後には関係の破れがある。すなわち、「愛された経験のないものは、愛することが出来ない」とアウグスティヌスは言ったと記憶している。その親も虐待されたという負のスパイラルによる連鎖がこのような悲劇を産みだしていると思う。

 この最期の叫びは詩編22編を唱える途中でイエスが息絶えた。という解釈も成り立つが、詩編22編の後半の賛美、信頼の言葉として読むことはできないと、わたしは思っている。

 10月31日はわたしたちにとってはハローウィンではなく、「宗教改革記念日」である。 M・ルターは聖書を読んで真理を発見した。それが「人は行いによって、生きるのではなく、信仰によって生きる。」いわゆる「信仰義認」である。

 歴史を紐解けば、教会は常に神の御心に生きたとは言い難い。異端審問(裁判)、魔女狩り、十字軍という言葉に象徴される過ちを教会は犯し、今もまた自分の考え方にそぐわないものを排除することが当然である、と考える人たちもいる。そして宗教改革者たちもその呪縛から完全に解放されていたとは言えない。

 果たしてわたしたち(教会)は本当に神の御心を行っているのか、という祈りを忘れることは出来ない。M・ルターが発見した真理はわたしたちの生きる土台である。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』ではないが、わたしたちの中にあるエゴを決して見過ごしてはならない。

 宗教は己の「安心立命」に終始してそれで目的達成しているとは言えない。イエスは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛(大切に)しなさい。」と言われた。

 世界の現実に目を背けることは聖書を読んでいたとしても、聖書に生きているとは言えない。

 聖書を生きるとはイエスの言葉を土台に据えた生き方である。そしてその生き方は誰をも排除しない生き方に他ならない。

 わたしたちはイエスのようには生きられない。すべての人を愛するという言葉は理想であるが、お題目で終わる生を日々生きている自分がいる。だからこそ聖霊の導き(神の働き)を信じ、祈りたいと思う。

 神のようになろう、自然を支配出来ると誤解した結果、「公害」がうみだされた、環境が破壊された。わたしたちのいのちがを脅しているという事実に目を背けてはならない。環境活動家グレタ・トゥーンべリさんの言葉を警鐘として受け止めたい。

 パウロは「被造物」の呻きを語った。一連の自然災害の事象を軽視しない者は聖書に生きる者に他ならず、その精神を教会の遺産として日々の歩みに生かしていきたい。

今回の台風、豪雨で被害に遭われた方々の上に神さまの慰めを祈ります。