72年目の「敗戦の日」を迎えるにあたって
                              
                
堀切教会 牧師真鍋孝幸
 クリアファイルに納められている三つの記事から「今月の言葉」を書いている。1番目、92歳で亡くなられた大田昌秀さんと「沖縄慰霊の日」、2番目、7月18日105歳で亡くなられた日野原重明さんが「地下鉄サリン事件」の時に陣頭指揮を執った記事からそして最後に7月26日で1年目を迎えた「津々井やまゆり園の障がい者殺傷事件」である。これらに関する記事に共通するのは「いのち」の重さである。

 大田昌秀さんは沖縄県知事時代の95年に米兵暴行事件に抗議する県民総決起大会を行い、8万5千人の人たちが怒りと悲しみの中で抗議している様子を本土の人たち(ウチナンチュウ)に映像で示した。そして沖縄がいかに差別されてきたかをこのような言葉で端的に語る。「日本政府は、あらゆる方法をもって琉球政府を利用するが、琉球の人々のために犠牲をはらうことを好まない」この言葉はご自身が鉄血青年勤皇隊の生き残りとして体験したことと無関係ではない。学問と体験に裏付けられた彼の言葉は厳しくわたしの心に突き刺さる。佐藤 優さんは『世界』と『福音と世界』という二つの雑誌に大田昌秀さんの追悼文を寄せていた。彼はその中で母親と同じ久米島出身の秀才大田昌秀さんが、政治家として沖縄の痛みと怒りを暴力で訴えることなく、徹底した「非暴力」で貫いたこと、そしてひとり一人の県民の声を真摯に受け止め、国に対してその人たちの声を必死に訴えた政治家であったことを書いていた。そして最後に大田昌秀さんから出された宿題として、母親が日本系沖縄人であるがゆえに「沖縄独立論」を自分は考えなくてはならないと。

 日野原重明さんはクリスチャンであった。父は牧師で、その信仰を受け継いで信仰生活を送り、生涯現役医師として働き、全国を行脚(あんぎゃ)して、講演会では聴衆に笑顔で語りかけ、病院では病床の人の手を握り、誰であろうと分け隔てなく接し、多くの人たちに希望と勇気をあたえ続けた。記事の中で当時聖路加国際病院の救急センター長であった石松伸一副院長は、「サリン事件」で陣頭指揮を執っていた日野原院長の「決断力」について語っていた。そして長女に『十歳のきみへ』を書いた日野原先生の声を聞きたいとせがまれたことがきっかけで「いのちの授業」がはじまったこと、その中で「仕返ししてはならない。仕返しから戦争ははじまる」「時間は人のために使いなさい」という日野原さんの言葉から「命や平和への思いを感じた」と語っている。

 あの「やまゆり園」の凄惨な事件から1年が過ぎた。かつてナチスはT4作戦では「優生学思想」に基づき、安楽死を実行した。それを推進したのはいのちをあずかる医師たちであった。それによって多くの障がい者がユダヤ人の大量虐殺前に殺された。

 これは単に精神障がい者が起こした奇異な狂気殺傷事件ではない。植松 聖被告に面会した被害者の弟は「姉は薬をのんで静かに寝ていたんだよ。職員さんにもほとんど迷惑をかけていないのに、それでも姉が憎かったの?」「いいえ、憎くはありません」「それでも殺したんだね」質問を重ねても、低くうめくだけだった。とその印象を語っている。

 精神障がい者だからあのような凄惨な事件を引き起こしたのではない。ナチスの「優生思想」がそのことを行っていた事実に目を背けてはならない。ナチスの時代そのことは正当化されていた。植松 聖被告の中にある「生きていても仕方がないいのち」という考え方は、排外主義、排他主義そしてヘイトスピーチを公然と行っている人たちだけではなく、私たちの中にも潜在的にあることに気づかねばならない。

 もうすぐ、8月を迎える。「平和について」人々は考え、教会はそのことを願って神に祈る。ひとり一人が掛け替えのないいのちであることを忘れるとき、平和は「蟻の一穴」の譬(たと)えにあるようにこのままでは崩壊する。
 ひとり一人の人権が重んじられ、すべての人は生きる権利がある。ということこそが「積極的平和」ということに他ならない。そしてそれはシャロームの道である。この聖書の言葉を心にとめて、72年目の「敗戦の日」を迎えよう。