2017年4月
          わたしたちの務め、教会の務め
                    堀切教会牧師 真鍋孝幸
 WBC決勝戦の日、一局を除いて「民放」もNHKも「森友学園」籠池泰典理事長の証人喚問の様子を放送していた。「教育勅語」を幼稚園児に暗唱させ、戦前の教育を彷彿させるような「小学校」が建設されようとしていた。

 国有地が幾らゴミの撤去費用がかかるのかは分からないが、わたしたちには信じがたい格安値段で払い下げられ、4月開校に向けての建設が行われていた。

 現首相のパートナーが名誉校長として学校の「顔」として広告塔を務めることで、寄付金が集まり、大阪府の担当者、関係官庁の関係者も私学協会も認可に向かって合意し、後押をしてくれる。と思ったのかどうかはわからないが、彼のシナリオは連日のマスコミ報道で脆くも崩れた。首相も応援してくれたのにと言う思いが、「昭恵さんが講演に見えられた時、お供の者を人払いして、安倍晋三から言付かりました。と私に100万円を理事長室で手渡された。」と偽証罪が適応されることを覚悟で彼は、手のひらを返して、トカゲの尻尾切りをする厚顔な政治家たちに対して、憤怒の思いでこのような発言をしたとしても不思議ではない。真相は霧の中にあるのだが。

 「永続敗戦論者」たちは、戦前の教育を評価し、「教育勅語」を重視している。そしてその流れは軍靴の足音と共に着実に近づいている。と感じているのは私だけではあるまい。「改正前」の教育基本法は、戦前の反省から生まれ、現憲法とマッチしていた。

 昨日、テレビを見ていたら、「道徳」の教科書のことが報道されていた。戦前の「修身」のようなものではない。と政府(文科省)は言う、「日本の伝統と文化を重んじる。郷土と国を愛する心を養わせる。」という目的でこの教科書はつくられたという。一部のマスコミでは教科書検定に対する疑問が呈されている。

 日本は「単一民族」ではない。強制的に連れてこられた「在日」朝鮮・韓国の人たちがおり、アイヌ、琉球民族もいる。大和民族と言うひと括りで「日本人」を語ることは果たして出来るのだろうか。それぞれの「民族」のルーツが今回の道徳の教科書には語られているのだろうか。

 強制連行で「創氏改名」をさせられた朝鮮人の人たちは名前と国語を奪われた。二等国民というレッテルが勝手に貼られ、彼ら/彼女らは言われなき差別を受けた。民族差別だけではない。「部落差別」をはじめ様々な人々が、優劣をつけられ、学ぶ機会も平等とは言えなかった。そしてそのような現状は今なお、様々なかたちで続いている。「ヘイト・スピーチ解消法」によって、暴力的ないのちの危険を感じるようなヘイト・スピーチは今のところ陰を潜めているが、あるきっかけでネット右翼が結集しないとも限らない。

 当初、「国旗・国歌法案」を成立させるときの説明では、「強制はしない。内心の自由には立ち入らない。」と言いながら「職務命令」を盾にして卒業式で「君が代」を伴奏しない音楽教師、起立しない、歌わない教師たちは「困った人たち」と扱われ、処分をされている現状を考えると、楽観視出来ない。ましてや「茶色の朝」になれば、個人の意見などは、吹き飛ばされてしまう。

 子ども一人一人は「人格」である。それ故に「子ども権利条約」(文科省 「児童の権利に関する条約」)によれば、「締結国は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的もしくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。」と2条に明記されている。日本もこの条約を批准していることを忘れてはならない。

 今回の問題は、国有地を格安で払い下げられたことがことの発端ではあるが、「教育勅語」の復興という思いが、このような事相の背後にあるのではないのか、というのはわたしの考え過ぎなのだろうか。

 イエスは「小さくされた者たち」に神の国を語り、実践された。(十字架に架けられる前のイエスの言葉と行動を福音書は語っている)その事を私たちの土台に据え、「教育勅語」の復興の「空気」を「見張り番」(エゼキエル書33章)としての役割を見まもりたい。そして「茶色の朝」が来る前に抗する力と知恵を祈り求めたい。