2017年3月
           映画「沈黙」-サイレンスーを観て考えたこと

                     堀切教会牧師 真鍋孝幸
 アカデミー賞監督のマーティンスコセッシが28年の歳月を経て完成させた「沈黙」-サイレンスー を観ることが出来た。

 遠藤周作の『沈黙』を読んだのは10代であったと記憶している。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」と銅版のイエスの声をロドリゴは聞く。尊敬していたフェレイラ神父が棄教したということを聞いたロドリゴ神父とカルぺ神父はそれを確かめるため、祖国ポルトガルを旅立ち、マカオで日本人キチジローの手引きで長崎にたどり着く。しかし彼らを待っていたのはキリシタンの激しい筆舌に尽くしがたい弾圧であった。「踏み絵」を踏まなければいのちは奪われてしまう。キチジローは心の中で信仰を持っていけばそれでよいと考えたのであろう。躊躇なく最初は「踏み絵」を踏む。そればかりか、奉行所が神父を捕らえた者に対して銀硬貨の賞金300枚を出すことを知り、彼を引き渡す。遠藤はキチジローの中に、イエスを知らないと言ったペトロとイエスを引き渡したユダを見いだした。二人の弟子たちに象徴されるのは「裏切り」である。福音書はペトロの「裏切り」をイエスがゆるしているが、ユダの裏切りはゆるされることがないことを、ルカは使徒言行録でユダの悲劇的な最期を記している。遠藤は「裏切り者」キチジローをそのようには描いてはいない。

 「同伴者」イエスを遠藤はその後描き続け、そして『深い河』でその思想を完成させている。

 文学には正解はない。同じように映画にも正解はない。様々な視点で観ることがゆるされ、その人が置かれた立場で考えることが出来る。

 なぜ、神さまは「沈黙」されておられるのか、「不条理」をどのように受けとめるのか、それはヨブ記の「神義論」のテーマであると同時に無神論者アルベール・カミュの『ペスト』の問いでもある。なぜ、神がおられるのに、神は「不条理」をゆるされておられるのか。遠藤は強い神、強い信仰者を描くだけではなく、弱い者キチジロ-に象徴される者たちをゆるされる神を描いている。

 キチジロ-を好演した俳優窪塚洋介は「神を信じることは、自分を信じることと同義だと思い、キチジローが弱い人間だとは最初から考えずに演じた」と語っている。

 わたしは、キチジローの中に自分を見いだす。迫害弾圧下の中でどこまでイエスを「主」と告白し、いのちを賭してイエスに従うことが出来るのかはわからない。ボンヘッファーやロメロのような現代の殉教者となれるかと問われれば、Yesとは答えられない自分がいる。

 しかしその一方で、そのように生きられれば…と言う憧れはある。

 戦前のような状況の中で、公然とイエスを告白するようなことが出来ないような時代が来る時、出る杭として歩むことが出来ればと思う。

 「茶色の朝」(フランク パブルフ著)が近づいている。だれもがそのような社会が来るとはさらさら考えてはいない。しかし、確実にその朝はひたひたと忍び足で近づいて来ている。その時、果たしてわたしは、イエスのように生きることが出来るのかが、問われてもいる。