2017年12月
           
無辜(むこ)の声からはじまった
                             
                      堀切教会 牧師真鍋孝幸
 白鵬の40回目の優勝で九州場所は幕を閉じようとしている。けれどもこの記念すべき記録による優勝がかき消されるように連日、こぞってマスコミは日馬富士の貴乃岩に対する暴力事件を報道し、無言を貫く親方である貴乃花と協会との確執、モンゴル出身の力士会で起きた内輪の暴力なのになぜ、頑(かたく)なに貴乃花親方はこれほどまでに協会の要請に口を閉ざすのか、そのことにスポットを当てて報道している。

 いじめは、学校だけの問題ではない。これは社会問題である。ハラスメントにはセクハラ、モラハラ、パワハラ、アカハラ、ドクハラ、様々なハラスメントがある。これらは被害者に大きな傷を負わせ、場合によっては出社できずに、最悪の場合自死することすらある。

 次元は違うかもわからないが、「国ハラ」という言葉が存在するならば「制裁」は「国ハラ」(nation)にあたる。「クレイジーな国なので最悪の場合は軍事行動もやむを得ない」ということで「国連決議」で経済制裁は強化される。制裁を課すことで平和は維持される。という論理は制裁を課す国は正義で制裁を課せられた国は不正義だ。という論理が正当化されることで成り立つ。歴史を見れば一目瞭然で、いくら経済制裁を課しても権力者にそれがダメージとなることはまずもってあり得ない。そこで苦しむのは「民衆」だ。

 聖書にはおのれの権力維持のため、暴力という手段をいとわない為政者が少なくとも2名登場する。一人はエジプトのフォラオ(ラメセス2世?)であり、もう一人はヘロデ大王(アンティパロス)である。二人に共通するのは権力を維持するための幼児虐殺である。出エジプト記1章15~22節、マタイによる福音書2章16~18節に記されている。

 幸い出エジプト記に登場する男児たちは見えない神の導きで助産婦の機転でその難を逃れる。しかしヘロデは残虐な虐殺を実行する(史実はわからない)。そのため、嬰児であるイエスはエジプトにヘロデが死ぬまで避難したと記されている。しかしそれ以外の男児は皆、虐殺され、母親たちの慟哭が「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子どもたちはもういないのだから。」という預言者の言葉が記されている。

 いつも権力の犠牲となるのは無辜な人たちだ。どんな状況下であっても権力者は安泰であることは堀田善衛の『方丈記私記』を読めばわかる。

 街はクリスマスのイルミネーションで彩(いろど)られている。クリスマスキャロルが無造作に流れている。人々はキャロルに耳を傾けることなく、買い物に勤しんでいる。これはいつもの師走の光景である。

 クリスマスは「救い主」の誕生を祝う祝祭である。キリスト者は「イエスは主なり」と告白する群れである。ラマで泣く母親の声、今なお世界中で苦しむ無辜の声が響いている。この現実の中で、イエスは誕生した。そのことの意味を考えながら、クリスマスを祝おう。