宗教改革 500年に思う
                                   
                      堀切教会牧師 真鍋孝幸
 私ごとで恐縮ですが、10月で還暦を迎えます。十代でキリスト教に出会い、洗礼を受けてから46年が過ぎました。あと何年働けるのだろう。5年、10年‥。それは神さまのみが知っておられることです。日本人の平均寿命が90歳となるのもそう遠くないように思います。

 プロテスタントでは世界中で「宗教改革」500年を記念して、様々な催しが行われています。日本でも9月18日にドイツの神学者を招いて講演会が行われ、わたしも出席し、沢山の刺激を受けると共に大いに学ぶことが出来ました。

 わたしたちは宗教改革は1517年10月31日、カトリックの司祭で神学者・聖書学者でもあったM・ルターによってもたらされたと学校でも習います。けれども、歴史を遡ると、14世紀後半から15世紀にかけてルターが行った運動の芽が既にあることに気づきます。そしてその中でイギリスのジョン・ウィクリフとチェコのヤン・フスの存在を抜きにしてはその後のヨーロッパを席巻した「宗教改革」運動はあり得なかったのです。

 二人の先駆者は異端のレッテルを貼られ、ローマカトリック教会から破門。ウィクリフは死後その墓が暴かれ、遺体が掘り起こされ焼かれ、スイフト川に流されます。一方ヤン・フスは火あぶり刑に処せられ、灰になるまで焼かれ、ライン川に灰は流されます。教会の権威ではなく、聖書の権威を語ったがゆえに彼らは教会から抹殺され、その支持者たちも弾圧を受けます。しかしその中から、ロラード派、ボヘミア兄弟団のような新しいグループが生まれたことを私たちは歴史を通して知ります。その他にも歴史には名前を記されていない人たちが、ルターの先駆者として歩んで来た歴史を私たちは知らねばなりません。

 ルターは私たちは信仰によって義とされ、神から自由を与えられる。その自由を与えられた者たちは隣人に仕える。それがキリスト者であると説きました。

 今、「ファースト」という言葉が流行しています。トランプ大統領、小池都知事はこの言葉で有権者の支持を得て今の地位に就きました。

 トランプ大統領は国連で「北朝鮮」に対して品格を少しも感じさせない言葉で非難します。それに対して北朝鮮の金正恩はさらに彼を挑発しています。双方での舌戦がこれからもしばらく続くのかと思うと、いささかうんざりです。

 安倍首相はトランプ大統領の理解者、支持者であることを内外に明らかにしています。そして彼は「現憲法」の9条第二項に一項を加えることを画策しているようです。そしてその考え方は、「ファースト」をかかげるグループ(新政党)、保守をかかげる政党によって支持をされるのではないかと、わたしは危惧しています。

 権威に逆らうことは勇気のいることです。ヤン・フスのように今の時代は処刑されることはありません。(ないと信じています。)けれども、少数派は多数派によって駆逐されるのは歴史の必然です。

 今、私たちは歴史の前に立たされています。多数派に属するのであれば、安穏な生活を送ることが出来るでしょうが、少数派に属するのであれば、茨の道を歩まねばならないかもわかりません。

 社会改革を声高に叫ぶのではなく、今、苦しんでいる人たちの「声」を聞く者として歩むことを決心すれば、日本政府が行っている沖縄への構造的差別である「辺野古」・「高江」の問題、北朝鮮に対する圧力だけを強調して止まない現政権(権力)とそれに付随して流れている「空気」に対してもNOを言わねばならないのです。それは政治の問題ではありません。イエス・キリストによって罪赦されたわたしたちの生き方なのです。

 キリスト者は少数者です。日本の人口の1%にも満たないといわれています。だからこそ、「空気」に流されることなく、聖書に土台を据え、聖書によって生きる者でありたいと願っています。

 ペストが猛威を振るう中、ルターは重い腎臓病で63年の生涯を閉じました。彼が行った運動は宗教にとどまらず、社会、文化を築き上げていきました。そしてその後、教会は多くの過ちを犯しつつも神の赦しによって歩むことが出来ています。

 今の時代、少数者である私たちに何が出来るのでしょう。祈りつつ、私たちの意思を選挙で表したいものです。