2016年 9月
                  
すべての被造物を神は祝福される

                       堀切教会牧師 真鍋孝幸   神奈川県の相模市にある施設で、死者19名、負傷者27名が死傷された凄惨な「事件」から1カ月が過ぎようとしている。彼は「重複障害者は安楽死した方が幸福だ」と、衆議院議長にあてて手紙を書いた

 わたしは、中学2年の時、ボランティアとして、田無(現西東京市)にある「障害者施設」で、脳性麻痺で言葉は不自由であったが、筆談でコミュニケーションがとれた人とかかわったのが、最初の障がい者との出会いである。

 衝撃を受けたのは、将来福祉施設で働きたいと願って学んでいた友人と一緒に静岡にある障害者(重度障害児・者)施設を見学した時、「先天性水頭症」の人をはじめて見た時だ。頭だけが異常に大きく、一言も発することのないその青年を見た時、クリスチャンとなっていたわたしは「なぜ、神さまはこのような重い障がいを負う人をつくられたのか?」と思った。

 創世記にある創造のメッセージはわたしたちの物差し(価値基準)では量ることはできないと、その経験を経て考えるようになった。

 今回の凄惨な「事件」は大きな衝撃を社会にもたらした。そしてマスコミは容疑者を奇異な犯罪者として受けとめ、わたしたちとは違うと云うかたちで報道しているようだが、わたしにもこのような考え方が潜在的にある事を知らねばならない。

 25、26日の「朝日新聞」で「相模原事件」が投げかけるものと題して、「優生思想」について取り上げている。ナチスドイツは、重い障がいのある人を「価値なき生命」とみなし、「安楽死」計画(T4作戦)を遂行した。ガス室、薬物などで20万人以上が殺戮され、それとは別に「遺伝病子孫予防法」で40万人が断種された。ヒットラーはユダヤ人だけではなく、シンティ・ロマの人、そして障がいを負う人たちをこの世から抹殺した。以前読んだ本ではドイツ軍で戦病兵が精神病者であると診断されれば、同じような扱いをされたと書かれていた。

 ホイベルス神父の「最上の業」は珠玉の言葉として知られている。そこで語られる老いの生き方は「業」である。すなわち、何もできなくなっても合掌し、祈ることが出来るという。あのコヘレトの言葉12章には、老いのリストが書かれている。また『解体新書』を前田良沢といっしょに訳した杉田玄白が晩年に書いた「耄耋独語」(ぼうてつひとりごと) でもコヘレトの言葉にも同様の老いが語られている。

 熱心にボランティア活動をし、ケアしてきた人が、いざ自分が動けなくなった時、「よろこんで世話になることができない。」と云う、人間の「価値」を「業」に見いだす限り、わたしたちは「よろこんで世話になる」ことはできないのだろう。

 わたしは、10月で59歳となる。あと一年で還暦を迎える。持病のためだろうか、疲れやすく、動作も鈍い。記憶力も落ち、出かける時は、いつも物を捜している。そのため、メモをこまめに取り、スケジュールがダブルブッキングにならないように心がけている。

 平均寿命からすればあと二十数年はこの地上で生活を送ることになる。できることがその人の価値であるとすれば、徐々にその価値は薄れていく事になってしまう。

 「体験価値」「経験価値」「態度価値」と云うことばがある。それに加えて「存在価値」がある。人権の思想はこの「存在価値」に基づくものだと思う。

 今回の「津々井やまゆり園」の事件を通して、「存在価値」としての人間論を築き上げねばならないと思う。

 糸賀一雄は、「この子らを世の光に」といって、重い障がいを負う人たちと共に生きた。すべての人間を神さまはお造りになった。そしてすべての「被造物」を神は祝福される。そのことを心に留め、「業」から「存在」へと言う価値観を、教会は聖書のメッセージとして社会に向けて発信出来ればと考えている。