2016年5月
                   わたしたちの価値基準は聖書
                                         
                     堀切教会牧師 真鍋孝幸
 今月の14日マグニチュード6.5、16日マグニチュード7.3のいずれも震度7の大地震が立て続けに熊本地方を襲った。未だ収束するとは思えないような余震と呼ぶことが出来ないような地震が続いている。(ひろがりを見せ大分県も大きな被害に見まわれている。)わたしたちは3.11で自然災害の恐怖を映像を通して目の当たりにした。そして「原発」は事故を起こし、未だに十万人余りの人が故郷へ帰還できない状況が続いている。

 日本は地震大国である。報道によればわかっているだけでも2,000の活断層があるといわれている。インターネットで検索するとそのマップが表示される。何時、どこで大地震が起きても不思議ではないことがわかる。そのような中に「原子力発電所」が50数機あり、川内原発はすでに稼働し、今後もその数は増えるといわれている。司法判断で稼働停止命令が出たところもあるが、政府は「辺野古」同様、粛々(着々)と稼働に向けての準備を進めているようだ。反対であれば、反対の意思表示をしなくてはならない。

 そのような中で、19日の「朝日新聞」のオピニオン&フォーラムで「国家緊急権」について社会学者の橋爪大三郎さんと弁護士の中野昭安さんがこのことをめぐってのインタビューが掲載されていた。今、この条項を自民党は憲法草案に「緊急事態条項」として設けようとしている。このことについてもわたしたちはYesかNoか判断しなくてはならない。

 わたしの判断基準は何かといえば、それは今までの歴史、特に近・現代史であり、その中で生きていた人たちの証言である。歴史を教訓にするならば今、わたしたちはどのような選択をすればよいのか、その答えを見いだすまではいかなくとも、ヒントは与えられるのだろう。それとわたしにはもう一つの基準がある。それが聖書である。キリスト者にとって聖書はわたしたちの価値観の根底にあるからだ。しかし人によって読み方が違うのも事実で、あの9.11からはじまった「テロ」との戦争でアフガニスタン、イラクへの攻撃も当時の大統領が教会で祈り、そして聖書をもとにしてはじまったし、ヒロシマに向かって原爆を搭載したエノラ・ゲーが出撃するときも、聖書のある箇所が示され祈られた。歴史を紐解けばローマによってキリスト教が公認されて以来、「反ユダヤ主義」も十字軍もネイティブアメリカンに対する侵略・攻撃も、ホロコーストも、皆、キリスト者が聖書を根拠に自己を正当化するかたちで行われた。ということは事実である。

 それであるならばわたしたちは聖書の何処を基準にするのかといえば、それはイエスである。福音書が伝えているイエスの言葉と振る舞いが、その中心であり、核である。イエスを中心にして、今苦しんでいる人、戦争であれば敵・味方を区別するのではなく、民衆の現実を目にとめ、日本であれば虐げられ、様々な差別、経済格差に苦しむ「小さくされた人々」の視点をかりて聖書を読み直す。という作業がなければ、大国・自国の論理で何をしても、国益を守る。国を守る。国民を守るという大義名分で戦争をすることも、超法規的な法律を施行することも許されてしまうからだ。

 今回の地震で多くの人たちが家を失い、財産を奪われ、負傷し、44名がいのちを、そして十数人の人たちが震災関連死をしている。そして被災地では今も地震が来るたびに恐怖と不安の中で不自由な生活を強いられている。

 何時収束するか専門家にとっても想定外のことが起きている現状を考えると、本当につらいことだろう。わたしたちに出来ることがあれば、自分のこととしてこの人たちのことを考えたい。けれども、これに乗じて、もしも「緊急事態事項」が不十分なかたちで改憲を目論む人たちによって利用されるのだけはマッピラゴメンだ!

 神がこの世界をお造りになった。そして人間は神が作られた自然、動植物を支配するのではなく、管理する。その聖書のメッセージをわたしは土台にすえ考えていきたい。

 被災に遭われたすべての人たちの上に、主の慰めと導きを祈ります。