2016年4月 
              
イースターの朝を迎えよう
                                           
                     堀切教会牧師 真鍋孝幸 
 少し前ならば、この人たちが「対談集」を出すなんて、と思われる人たちが、新しい戦前がはじまる ! と言う危機感の中で対談を行い、対談集を出している。小林 節、樋口陽一の対談集もその中の一冊ではなかろうか。

 朝日新聞は朝刊で日本会議研究というテーマで特集を組んだ。そこには現政権を支援、支持する人たちがどのような顔ぶれなのか、が書かれていた。その特集記事を読み終わり、その会のホームページを開き愕然とした。憲法改正(壊憲)を目論んでいる人たちと思われる本音が明確にされていたからである。

 またそのなかの「朝日新聞を糺す国民会議」というコーナーでは、軍隊慰安婦とされた人たちの痛み、悲しみ、叫びは無視され、強制連行して性奴隷にしたことなどない。と言う主張がなされ、そのための訴訟「朝日新聞を糺す国民会議」への集団訴訟への支援と百万人署名の呼びかけがなされていた。

 その主張には果たして自分の家族がその被害者であったならば、と言う想像力があるのだろうか?。辺野古の問題も原発被害者の問題も自分が当事者だったら…と言う想像力がなければ分からない。

 けれどもわたしたちはそのような想像力が欠如している。少なくともわたしはそうだ。満員電車で人の足を踏んでもその痛みがわからないように、.わたしたちは当事者でない限り、その人の痛みはわからない。釜ヶ埼で労働者の視点で聖書を読み直している本田哲郎神父が著書の中でこのようなことを書いている。「相手と同じ立場に立とうとするのではなく、相手よりも下に立つ」(stand Under others)。「つまり教えてください」という姿勢で関わることです。と言い、また「悔い改め」と言うキリスト教用語の原語を解説して、聖書の原語(メタノイア)の意味は、ごく単純なことです。“視点を移す”ということです。人の痛みが共感できるところへ視点を移すことです。と書いている。

聖書の中に救いを求め、彼の話を聞くために方々から集まった「小さくされた人たち」にイエスが「パンの奇跡」(マルコ6章30~44節)で、その人たちの痛みを自分のことのように受け止めたイエス。それとは対象的にその人たちの痛みを自分の痛みのように受け止めることが出来なかった弟子の姿が描かれている。

 本田哲郎訳「小さくされた人々の福音」では次ぎのように訳される。イエスが「おおぜいの民衆を見て、かいぬしのいない羊たちのようなありさまにはらわたを突き動かされた。」それに対して弟子たちは「ここは荒れ野で、だいぶん時もたちました。人々を解散させて、まわりの里や村に行って、なにか食べるものを買うようにさせてください」。それに対してイエスは、「この人たちが食べるように、あなたがしなさい」と言うと、弟子たちは「百万円分のパンを買ってきて、この人たちに食べさせるというのですか。」この弟子の態度を「弟子の無理解」とある聖書学者はいう。

 イエスが逮捕されると彼らは皆、彼を裏切り逃げ去る。彼は「冤罪」であるにもかかわらず裁判で「有罪」となり、十字架刑に処される。その時、誰ひとりとして12弟子に象徴される男の弟子たちは、彼の最期を看取ることはなかった。そのような弟子たちの前に復活したイエスが顕れる。

 復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスに倣う者へと変えられ、やがてペンテコステの日、聖霊体験をする。そして教会は誕生する。その教会は弱さとあやまちを犯す群れである。けれども、またその教会はイエスに倣う群れでもある。

 教会に集められたわたしたちは想像力をめぐらし、自分の痛みのように他者の傷みに共感し、当事者性を身につけ、支え合い、祈り合うことが望まれている。そのことを心にとめ、それぞれがイースターの朝を迎えよう。