2016年3月 
       
排除するのではなく、受けいれ、分かち合うことの大切さ
                                          
             堀切教会牧師 真鍋孝幸
 次期アメリカ大統領を選出するための予備選が行われ、もしかすると政治経験が乏しい候補が大統領となるかもしれない。その筆頭がトランプ氏である。

 現ローマ教皇はトランプ氏に対して「橋ではなく壁を築くことばかり考える人は、キリスト教徒ではない。」それに対して、トランプ氏は「過激派組織『イスラム国』 ISがバチカンを襲撃したとき、トランプが米大統領になっていればよかったというだろう」と反論した。

 隣の芝生がよく見えて当然ではあるが、ベネディクト16世に変わってローマ教皇となったフランシスコ教皇は、貧しい人々と共に歩む教会を言葉と実践を通して雄弁に語っている。そして12日キューバでロシア正教のキリル・モスクワ及び全ロシア総主教が、東西教会分裂以来、約1000年ぶりにキリル総主教と現教皇が対話したことが報道された。新聞によれば、互いに三度口づけし、抱擁して「わたしの兄弟です」とキリル総主教が言うと、フランシスコ教皇は「これが神のみ旨であることがよりはっきりした」と応答する。神学的ないわゆる三位一体の聖霊に関する考え方すなわち「フィリオクエ論争」によって、1054年に東西に分裂した教会が「イエス・キリストは主である」と告白する教会として、違いを乗り越えて互いに認め合い歩むことが出来ればと願っている。

 日銀がマイナス金利を断行し、何とかしてインフレを生みだし、デフレから脱却を試みているが、一円でも安いランチを食べ、一円でも安い物を買い求めるわたしたちには、景気が好転しているとは思えない現状で、いくら為政者が景気は回復すると抗弁しても信じられないのが、現在の現状ではなかろうか。

 今、わたしたちに求められているのは、垣根を取り払い、持てる者が持たざる者に分かち合うことが出来る仕組みではなかろうか。

 聖書の中に登場する富める青年の物語(マルコ9章17~22節)は、分かち合うことが出来ないわたしの姿が、見事に描かれている。わたしはこの物語を読むたびに、「あなたならどうする」と神が語りかけておられるように思う。

 彼は、イエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねる。それに対してイエスは「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 現教皇がフランシスコと名乗るのは、13世紀の聖フランシスコによる。彼は、文字通りイエスの言葉を実践し、小鳥にも語りかけた。そして仲間を増やし、修道院を作る。イエズス会出身の教皇が、なぜ、別の修道会の創始者の名前を名乗ることになったのか、興味深い。

 非正規が4割、格差は拡がり、高齢者から子どもまでが貧困に喘いでいる。アメリカが1%の富者と99%の貧者の国と言われて久しいが、日本もグローバリゼーションが進むことで、アメリカに近づいていると思うのは、わたしだけであろうか。

 今月の10日からレントに入った。イースターまでのこの期間わたしたちは、イエスの「苦難」の意味を考え、十字架の主を心に受け止めて過ごす。なぜ、イエスが十字架に架けられ、苦しまれて死ななければならなかったのか、今、イエスは何処におられるのか、そのことを考えながら、違いを認め合い、分かち合うことが出来ればと願っている。