2016年 10月           「ヨナ書」を読んで考えたこと
                                         
                     堀切教会牧師 真鍋孝幸
 あの9.11から15年が過ぎた。そして首謀者ビン・ラディンをかくまっているという理由でタリバンがいるアフガニスタンに容赦ない攻撃を行い、目の上のたんこぶ的存在であったイラクを連合軍で攻撃し、フセイン政権を倒した。

 独裁政権から民主主義政権へというかたちで行われたアメリカによる「正戦」は、未だに決着がついたとは言えない。

 朝鮮戦争から今日にいるまで、「オキナワ」では、戦時には戦地に向かって戦闘機が飛び立っている。戦後71年を迎えたと言うが、「未だに…沖縄では…」という現実をわたしたちはどこまで知っているのだろうか。

 「憎しみからはなにも生まれない。」わたしたちはそのことを知っている。けれども戦争や犯罪で被害者となった家族は加害者を許すことが出来ない。犯罪であれば、裁判で厳罰を強く望み、戦争であれば敵国に対する容赦ない様々な攻撃を容認する。

 神さまはイスラエルの神である。わたしたちは神に選ばれた民である。神はイスラエルの民を特別に選び出された。わたしたちが苦難に遇ったのは、神に選ばれた民として歩まず、神に背を向けた結果、屈辱的なバビロン捕囚を経験しなくてはならなかった。選ばれた民として歩むためにもう一度神に立ち帰り、神中心の生活をしなくては自らのアイデンティティを保つことは出来ないと考えた。その結果、他の民族に対する差別的な態度が生まれる。すなわち、自分たちは神に選ばれた特別な民である。神の祝福は、わたしたちだけに注がれている。

 そのような中で、旧約聖書にある「ヨナ書」は特異である。なぜならば、イスラエルの神は「イスラエルだけの神ではない」「万国の神」であると言うメッセージがあるからだ。

 アッシリア帝国は好戦的で強力な力を誇っていた。諸国を侵略しては人々を離ればなれにし、各地に移住させた。紀元前722年にアッシリアに敗れた北イスラエル王国の民は、散らされて、その民(10部族)は歴史の舞台に登場することはなかった。

 紀元前300年頃に書かれたとされている「ヨナ書」はそのような時代背景の中で、万民の救いを語る。僅か4章に満たないが、「ピノキオ物語」にも影響を与えたとされているこの書は、フィクションと思われる記述であるにもかかわらず、今を生きるわたしたちに大きなメッセージをもたらせてくれる。

 イエスはすべての民に救いを語られた。そして弟子たちに「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」(マタイ28・19)と命じられた。

 神はヨナに向かって「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ、彼らの悪はわたしの前に届いている。」(ヨナ1・2)しかし、ヨナはその命令に背き、ニネベとは反対方向のヤッファに向かう。神の不思議な導きで、ヨナがニネベの民に語ると、ニネベの民は狼狽えすべての民はヨナの言葉を受け入れ「悔い改める」しかしその民を許す神に対して不平を持つ。そのヨナに対して、「とうごまの出来事」(ヨナ4・6~11)を通して、神は語りかけられた。「この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4・11)

 憎しみからは、何もうまれないことをわたしたちは知っている。にも関わらず憎しみの連鎖は留まることを知らない。

 敵国とみなせば、経済封鎖、そしてやがて戦争となっていく。神の救いはすべての人に及ぶ。誤解を恐れずに言えば「宗教の垣根をも越えている」けれども、現実の世界はそれとはほど遠い、やられたら倍返をしろ、やられる前に攻撃しろ、ならず者にはこちらの誠意は伝わらないのだから、と言う論理で攻撃の正当化をしている。あの9.11で父を奪われた息子が大学で国際法を学び、アラビア語を学んでいることが報道されていた。相手を敵とみなし、対話することは不可能である。と考えるならば、そのような行動は出来ない。

 神はすべての民が平和に暮らすことを望んでおられる。教会はそのメッセージを発信し、憎しみからは何もうまれないことを語らねばない。