2014年9月
                   あった事を、なかったことのように
      
                           堀切教会牧師 真鍋孝幸
 20日の未明「土石流」が広島の安佐南区、安佐北区を襲った。死者は72名、行方不明者は2名であると8/29現在報道されている。行方不明者が一刻も早く見つけ出されることを願わずにはおられない。

 私たちは、あの「3.11」以後、自然の猛威を感ぜずに過ごすことが出来なくなった。豪雨がいつ私たちを襲うかも知れない。私が住んでいる所では川による氾濫で3メートル近くが浸水すると言われている。自然と共生することなく、自然を破壊し、科学の力に過信した結果何がもたらされたのかを知るものとして、自然を通して神は私たちに何を語ろうとしているのだろう。その声に真摯に耳を傾けねばならない「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と衆議院議員を辞し、いのちを賭して「遊水池」に沈む「谷中」の人々と運命を共にした田中正造の言葉と生きざまに今こそ学ばねばならない。

 もしも今、正造が生きていたら彼は「原発」に対してどのような発言をし、行動するのであろうか。山を削るような宅地開発をどのように受け止めるのであろうか。もう一人の田中は「日本列島改造論」を打ち立てて、新幹線を日本列島の動脈とし、産業を推進することを目論んだ。私たちは科学は万能ではない。どんなに科学が進歩したとしてもヒューマンエラーを回避することは出来ない。

 あの関東大震災から今年で91年を迎える。そして富士山の噴火から300年が過ぎた。いつ大震災が首都圏を襲っても、富士山が噴火してもおかしくないと言われている。そのためだろうか。9月1日には、警察、消防だけではなく、自衛隊も参加した大規模な防災訓練が今年も行われることだろう。「備えあれば憂いなし」である。

 私たちはこの日に何が起きたのかを知っているのだろうか。死者・行方不明者14万余人の人たちが被害に遭い、下町はほぼ壊滅状態であった事は知っている。『もういちど読む山川現代史』によれば、その時の様子が「関東大震災と朝鮮人虐殺事件」として記載されている。また『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)では、「震火災による死者・行方不明者14万余人のうち、約8000人は、疑義の多い戒厳令と、パニックにおちいった群集心理の相乗効果によって引き起こされた“不当殺人”の犠牲である。その大部分(六千数百人)は朝鮮人だが、400人以上の中国人、やはり数百人単位の日本人(社会主義者など)も含まれる」と、田原 洋氏は前著で指摘している。

 インターネットで「関東大震災」を検索すると、様々な意見がある事を知ることが出来る。「でっち上げだ」と言う趣旨の文を見て、驚愕した。今、「南京虐殺」はなかった。所謂「慰安婦」は強制されたのではない。そのような主張は荒唐無稽ででっち上げだ。と言うような意見があるが、自分たちの犯した罪を受け止めず、自己正当化するような「空気」が蔓延するとすれば、そのことを看過することは到底出来ない。

 「自虐史観」がまかり通り、戦争の悲惨さは語られても、加害者としての戦争が語られないとすれば、嘗て植民地として朝鮮(韓国)人の人たちに創氏改名、国家神道である神社参拝をさせた。彼ら/彼女らのアイデンティティを著しく傷つけた事実を「なかったことのようには」出来ない。してはならない。自分たちは悪くない。と言う姿勢を「罪」として捉えるのがキリスト教の罪理解である。(本来の罪は聖書では的外れ、関係性の断絶、疎外)私たちには、罪がないと言い張ったファリサイ派の人たちに対してイエスは言われる「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、石を投げなさい。」(ヨハネによる福音書8章7節)。

 私たちは、誰もが人を傷つけ、ある場合は人を殺める存在である事を知らねばならない。中国人を初年兵は上官の命令でマルタのように扱い、殺めた。「井戸に毒を入れた」「放火して回っている」と流言飛語で朝鮮人・中国人を虐殺した自警団もいずれも家庭ではよき父であり、よき夫、息子であった。決して極悪人ではない。その善良な人たちが、狂気する時、いのちの重みは軽くなり、人間をマルタのように扱う。私たちは知らねばならない。人間はあるスイッチが入ると、残酷になることを。

 私も実行委員会のメンバーとして関わっているのだが、今年の9月13日(土曜日)に1924年9月13日90年前、早稲田奉仕園スコットホールで、何があったの?!と言うことで、講演と朗読劇「かくも重き沈黙……かくも深き罪」と言う一人芝居が行われる。(詳細はホームページの中にあるチラシを参照

 私たちは、次の世代に語り継がねばならない。91年前に何があったのか。敗戦国となるまで日本軍が犯した罪を…そして今後二度と同じ悲劇が起こらないように「過ちは決して繰り返しません、犯しません」と。そのことを考える日として、防災の日を過ごしたい。