2018年6月             支配とは仕えること

                                                        堀切教会牧師、真鍋孝幸
 新聞テレビは、連日日大のアメフトの「悪質タックル」について報道している。タックルをした選手は、名前も顔も明かして、選手としてはやってはいけないラフプレイであったことを日本記者クラブの記者会見の席で明らかにして、今後のことを問われると、「続けていく権利はないと思っている。この先やるつもりもありません」と質問に対してこたえていた。20歳の若者が、今回の事件で「夢」を砕かれてしまったと、感じたのはわたしだけではあるまい。それに対して、選手に命令を下したとされる監督、コーチは一貫して、故意によるものではない。選手との「乖離があった」と記者からの質問に答えている。今後、この「事件」が傷害罪として、起訴されるのかどうかわからないが、選手の真摯な態度とそれを命令したとされる監督、コーチの終始、非を認めず、「乖離」という言葉で説明している態度には明らかな開きがある。「朝日新聞」(23日)に元TBSキャスターの下村健一さんの「問題の当事者として動揺する若者を矢面に立たせたことを、日大は教育機関として反省してほしい。もっと早く問題の全貌を発表していれば、向かい風に学生一人で立ち向かわせることにはならなかった」という言葉が紹介されていた。

 命令に対して「絶対服従」を強いた結果、生じた今回の問題はアメフトだけの問題ではないことは、連日報道されているいわゆる「もり」「かけ」、自衛隊の「日報」問題、セクハラ問題にも通じることではないのか。すなわち、支配者が絶対服従を強いた場合、その命令を受けたのは抵抗することは出来ず、ダメだとわかっても実行する。責任は末端のものに取らせ、自分にはそのような意図はなかった。という体質は戦前の「無責任の体系」に通じるところがあると、わたしは感じている。

 支配、支配されるものということを考える時、あるゲームのことを思い起こす。一人のリーダーが選ばれ、その人の命令を聞いて反応する「王様ゲーム」である。王様の言うとおりに出来なければゲームでは負けてしまう。あのゲームである。無意識のうちに支配者には服従するという暗黙の了解の元に進められるのが、このゲームの特徴である。

 創世記には人間は「神のかたちに」造られ、神にかわって自然を支配するものとして位置づけられていると読むことが出来るが、果たしてそのような読み方は今の時代のコンテキストに適しているのだろうか。ある人はこのように書いている。「聖書を正当に公平に読めば、一方では「支配」と言って人間を自然とまったく同じものとは考えず、人間に王の位置を与え、自然を管理する神の代理人に立てています。しかし、他方では、「地に仕える僕としてこれを守れ」と言って、人間が神からの委託を受けて自然に仕え、これを守ることが明確にされているのです。」(『いま、聖書を読む』ジェンダーによる偏見と原理主義の克服をめざして 高柳富夫)

 支配者による暴力的な服従は今日のスポーツにはそぐわない。自主性を尊重し、自分の頭で考え、判断することが求められているのだろう。

 今回の「アメフト」問題にはそのような訓練がなされていなかった結果、生じた「事件」であると考えている。

 それとは対照的なのが小さいときからの「夢」を適えるために渡米した大リーグエンジェルスの大谷翔平さんのすがすがしい姿である。打者としては、チャンスに強い、走れる選手として、投手としては160㎞以上の速球を投げ、変化球と速球で打者を三振させているあの雄姿に興奮しないで見ているものはいないであろう。彼はいわゆる旧体制では育たなかった選手ではないのか、自分の頭で判断し、信念は曲げず、目先の損得勘定にも縛られず、神さまが与えられた才能をフルに発揮している。それが映像から映し出される彼の姿だ。

 わたしたちは神によって、創造された「被造物」である。そしてその「被造物」に神は、自然を管理、保護し、地に仕えるものとして創造された。そのことを考え、強者が弱者を支配するという構図は間違っていると、自覚しなくてはならない。