2018年3月
              二人の巨人の旅立ちを通して考えたこと
                                         
                                   堀切教会牧師 真鍋孝幸
 『苦海浄土』の石牟礼 道子さんが90歳で、「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」を詠んだ俳人の金子兜太さんが98歳でこの世の旅を終えた。

 チェルノブイリ以来の深刻な福島原発事故で、100名余りのこどもが「小児甲状腺ガン」を発症し、その中にはすでに癌が転移しているこどももいるというが、しかしマスコミはこの事実の深刻さを伝えているのだろうか。

 あの3・11の東京電力福島第一原発事故によって、最初に頭に浮かんだのが、「足尾銅山事件」であり、「水俣病」であった。

 石牟礼 道子さんは、『苦海浄土』で水俣の不条理を語った。豊穣な不知火の海が「有機水銀」で汚染され、その海の魚を食べた猫が「逆立ちして、鼻の先できりきり舞う」「海に飛び込んで死ぬ」そして汚染された魚を食べた妊婦によって「胎児性水俣病児」が生まれ、今もなお重い障害に苦しんでいる。

 落合恵子さんは週刊『金曜日』のコラム・風速計で「‥…から見れば」で、水俣病とともに生きた医師の原田正純さんのインタビューを紹介していた。彼は「水俣から見れば社会が見える」といったという。

 近代日本150年 国益の犠牲になるのは声も出すことの出来ない人たちであった。そしてそのことは「福島原発事故」「沖縄」にも当てはまる。

 戦闘機の爆音にかき消されて授業がままならない現状、墜落するのではないかという恐怖感はわたしたちにはわからない。想像するしかない。しかし人は自分の痛みのように他者の痛みを感じることは出来ないにもかかわらず、わかったように振る舞ってしまう。

 当事者でなければその苦しみはわからない。わたしたちに出来ることは想像するしかない。しかし為政者だけではなく、わたしたちも想像力が乏しいのが現状ではなかろうか。

 映像で悲惨な現状が映し出されると、憤慨し、自分は正義の味方であると思い込んでしまう。けれども、自分が住んでいる地域に基地建設となれば、猛然と反対するだろう。

 この現状を「構造的差別」であると沖縄の人たちは考えているのに、そのことには思いが及ばない。

 「琉球処分」以来、沖縄は日本に併合され、「皇民化教育」が徹底された。そのことがあの忌まわしい戦争の歴史を生みだしたという事実をわたしは知らねばならないのだが、そのことを「知ってるつもりになっている」。

 あの「お~いお茶」の言葉をうみだした俳人の金子兜太さんは戦争を経験したものとして「アベ政治を許さない」を揮毫した。社会的俳句、前衛的俳句運動の旗振り役として、戦争体験を通して平和について語ったという。

 聖書が語る平和(シャローム)の原意は、十全性、すなわち、欠けることがないことを意味するという。「水俣」「福島」「沖縄」から社会が見えない。この現実が鏡とならない。ということは、聖書によれば「平和」ではないということになる。

 ヨハン・ガルトゥングによれば、このような視点、視座を「積極的平和」といっている。

 戦後72年、憲法「9条」によって日本は平和を享受してきた。しかし平和学の視点に立てば、日本は「平和」とは言えないのである。

 教会は今年は2月14日からレントに入った。4月1日の喜びのイースターを迎えるまで、イエスの「十字架」(マルコによる福音書15章33節)の意味について考えることになる。

 わたしたちの罪の贖い、「贖罪」としての十字架理解にとどまることなく、「今なお十字架の上でイエスは苦しむ人とともに十字架につけられ給いしままなるキリスト」である。この時代の中で「受難」の意味を捉えなおしたい。

その時、‥…から見ればと問う時、社会の縮図がそこから見えるかもしれない。